トモダチ作戦、米兵はシャワーすら浴びなかった

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大手メディアはこんな事をあまり報道しないけど、これが真実なんだね。(⌒-⌒)

 

ソース元

一等陸佐 笠松誠氏

2011年3月11日、東日本大震災が発生した。被災民の救助、被災地の復旧・復興を考えた時、いの一番に行なわなければならなかったことの一つが、物流インフラの復旧だった。被災地では、ありとあらゆるものが地震で壊れ、津波で流された。物流が機能しなければ、救護物資も救援物資も、被災者の元に届けることができない。地上の交通網が寸断される中で期待されたのは、物資を空から届ける方法だった。

その空の道を切り開くのに大きな力を貸してくれたのが米軍だ。東北の空の玄関である仙台空港を復旧させるプロジェクトに、「トモダチ作戦」の一環として加わってくれた。そのおかげで、わずか1カ月のうちに、民間航空機の離着陸が可能になった。

仙台空港復旧プロジェクトにおける米軍の協力はいかなるものだったのか。トモダチ作戦が持つ安全保障上の意義は何か。トモダチ作戦の経験は今、どのように役立っているのか。仙台空港復旧プロジェクトで米軍との調整の最前線に立った笠松誠・陸上自衛隊国際防衛協力室長(当時。現在は陸自西部方面総監部情報部長)に聞いた。(聞き手は森 永輔)

 

仙台空港の復旧プロジェクトはどのように進行したのですか。

笠松:これには、米海兵隊のクレイグ・S・コゼニスキー大佐をはじめとする米陸海空海兵隊が大きな役割を果たしてくれました。

 

東日本大震災が発生した当時、陸上自衛隊の幹部学校で戦略教官を務めていた私は、国際防衛協力室長に異動することが内定していました。これは外国との間で様々な協力関係をつくる部署です。震災の発生を受けて3月18日、仙台に向かうよう命じられました。

まるで海に沈んだかのように冠水し、悲惨な状況を呈していた仙台空港の姿を見た時は、復旧には半年はかかるだろうと考えました。建物は焼失し、管制の機能はすべて失われていましたし。

海に沈んだかのような仙台空港(笠松誠・西部方面総監部情報部長提供)

 

火事で焼け焦げる空港内のビル(笠松誠・西部方面総監部情報部長提供)

 

津波でながされたクルマが空港に(笠松誠・西部方面総監部情報部長提供)

 

悲観する我々の背中を押し、短期間での復旧を目指す提案をしてくれたのがコゼニスキー大佐でした。彼が勤務していた海兵隊のキャンプ・フジには様々な重機や大型トラックがあります。「それを使うのは今しかない」と言ってくれたのです。海兵隊の司令部は、一度は待ったをかけました。米軍が復旧作業に関わった時に日本国民がどのような反応を示すか分からないので、慎重になったようです。しかし、コゼニスキー大佐がそれを説得してくれました。

 

「我々の装備を使うのは今だ」

米軍は当初から二つの明確な方針を持っていました。一つは空輸活動のハブとなる空港を開通させること。もう一つは、その空港を復旧のシンボルとすることです。海水と瓦礫によって大きなダメージを受けた空港を復旧することができれば、被災民にも「自分のところも復旧できる」という希望を持ってもらうことができます。

 

笠松さんは現地でどのような役割を果たしたのですか。

笠松:陸上自衛隊は震災に対応するため東北方面総監部に災害統合任務部隊(JTF-東北)を立ち上げました。司令官は君塚栄治・東北方面総監(当時)です。その司令部の配下に設置された日米調整所仙台空港現地調整所長(当時)として詰め、米軍や空港関係者との連携に当たりました。

ホワイトボードの正面に座っているのが笠松誠・陸上自衛隊国際防衛協力室長(当時)

 

米軍は3月16日、米太平洋特殊作戦コマンドを仙台空港に派遣し、復旧作業を開始した。同コマンドは空港のないところに空港を造る特殊作戦のエキスパートだ。臨時の航空管制機能を設置する技術も有している。3月18日には、コゼニスキー大佐が率いる海兵隊が到着。休む間もなく、瓦礫を除去する作業の準備に着手した。翌日から、米空軍が空輸してきた救援物資を、海兵隊が被災地に届ける支援が始まった。

 

瓦礫の撤去を進める米軍兵士(陸上自衛隊東北方面隊提供)

 

(陸上自衛隊東北方面隊提供)

 

救護・救難物資をバケツリレーの要領で小学校に運び入れた(陸上自衛隊東北方面隊提供)

 

米軍と協力して作業を進める中で印象に残っているのはどういう点ですか

笠松:彼らが「日米の間には文化面のバリヤーがある」ということをよく知っていてくれたことです。バリヤーを越えるのは容易なことではありません。しかし、その存在を意識しているのといないのとでは、行動が全く異なります。

例えば彼らは、被災者や空港職員と出会うとお辞儀をしていました。私は他の国で活動する米軍の姿を幾度も目にしてきましたが、あんな光景を見たのは初めてでした。

それだけではありません。彼らは自由に使えるシャワーユニットをいくつも持っているにもかかわらず、それらを使おうとはしませんでした。3月とはいえ重労働をしているので汗もかいたことでしょう。髭も剃らないので、ぼうぼうになっていました。なぜかと聞くと、「我々が使わなければ、被災者の誰かが使えるから」と答えるのです。

宿舎として使う天幕も簡易で小さなものを空港敷地の隅に立てて使っていました。彼らは、パソコンと巨大ディスプレイを使った会議などができる本格的な天幕を持っているにもかかわらずです。これも「余計なスペースを使わなければ、被災者が何かに利用できるかもしれないから」という理由でした。

 

まさにトモダチ作戦の名前通り、米軍は友達として振る舞ったんですね。

笠松:はい。幹部学校の教官としてうれしいこともありました。教え子だった米陸軍からの留学生が偶然、仙台空港の復旧プロジェクトに配属されていました。ある時、彼女が「教官、たいへんです」と言って私のところに飛び込んできたのです。

聞いてみると、米軍が業者に発注して設置した簡易式トイレに黄と黒のトラテープが張り巡らされていて、「US ONLY」という張り紙が貼られているというのです。簡易式トイレの業者が、契約者である米軍に配慮して張り紙を張ったのでしょう。彼女は、「もし被災者がこれを見たら、誤ったメッセージが伝わってしまう。早く取りはずすよう調整してください」と私に要請したのです。

私は2005年に防衛駐在官としてパキスタンに赴任していました。この時、大地震が起きた。救助・救援のためにいちばんに駆けつけたのは米軍でした。しかし、彼らはパキスタンの人々の気持ちを慮ることができませんでした。パキスタンはイスラムの国であるにもかかわらず米軍は土日に休み、上半身裸になってキャッチボールをしていた。あれでは、むしろ行かないほうがよかったくらいでした。

米軍は3月31日、仙台空港でのプロジェクトを終えて去っていきました。その最後に何をしたか。彼らはなんとゴミ拾いをして帰ったのです。あれだけの瓦礫を撤去した後です、チューインガムの一つくらい落としていったとしてもバチは当たりません。そして、4月13日、念願だった民航機の運航が再開されました。

瓦礫を撤去し稼働が可能になった仙台空港(笠松誠・西部方面総監部情報部長提供)

 

まさに立つ鳥後を濁さずですね。トモダチ作戦で米軍は、どうしてパキスタンの時とは全く違う行動を取ったのでしょう。

笠松:やはり長年にわたって日本に駐留していることが大きかったのだと思います。コゼニスキー大佐がこんなことを言っていました。彼がキャンプ・フジの周辺でふだん接しているおじいさん、おばあさんと被災者の像が重なるのだと。おじいさん、おばあさんと同じような人が東北の地にもいる。その人たちを助けたいのだと。

 

ゴミとなったクルマにもオーナーがいる

キャンプ・フジ周辺のおじいさん、おばあさんが東北のおじいさん、おばあさんを救ったのだと言えますね。

 米軍がまさに友達として被災民の気持ちを汲み取り、行動してくれたのは本当に有り難いことです。しかし、ご苦労も多かったのではないでしょうか。仙台空港復旧プロジェクトは事前にシナリオを決めていたわけでもなく、訓練をしていたわけでもありません。突然、起こった大災害に対して、いきなり集められた日米の部隊や空港関係者が協力するのです。順調に進む方が不思議です。

笠松:そうですね。しかし、正直な話、大きな問題になることはありませんでした。先ほどお話ししたパキスタンのプロジェクトでは多くの国から部隊が集まり、調整に難渋することがありました。それに比べると仙台空港でのプロジェクトで起きたことは何でもありません。

ただし、こんなことはありました。津波によって空港敷地内に流されてきた山となっているクルマの撤去作業をしていた時のことです。これらのクルマは破損しており、もう走ることのできない事実上のゴミです。このため米軍のある兵士がゴミとして取り扱おうとしました。それをコゼニスキー大佐が止めたのです。そして、「それぞれのクルマにはオーナーがいる。その気持ちを考えて取り扱うように」と指示しました。

また、あるチームが事前の調整をすることなく、ある小学校にヘリコプターで訪れ物資を配付したことがありました。困っている子供たちを早く助けたい一心で取った行動だったと思います。しかし、日本には日本の事情があります。被災した県の知事や、市町村の首長は、全体を見渡して、最も被害の大きいところから支援したい。そのためには、いろいろな調整が必要で、調整には時間がかかる。そういう配慮をする必要のない米軍から見ると、日本側の動きは遅く、「やる気があるのか」と思うところもあったと思います。

 

事実上の日米安保条約発動

トモダチ作戦は安全保障上も大きな意義を持っていますね。適切な部隊を選んで任務を与え、現地に急行させる。最後の“撃ち合い”こそないものの、それ以外は有事の部隊展開と同じです。「日米安全保障条約の事実上の発動」と言われました。米軍は1万6000人の人員のほか、約20隻の艦艇、約40機の航空機を動員しました。

笠松:おっしゃる通りです。米国の各部隊は極めて短期間で展開しました。

米揚陸艦「トートゥガ」が佐世保から北海道に急行。3月16日、苫小牧にいる陸上自衛隊第5旅団の人員約300人を青森県の大湊に運んだ。これは津波警報が出ている真っ只中での協力だった。

強襲揚陸艦「エセックス」はアジア諸国との関係強化のためマレーシアを訪問していた。しかし、3月11日夜には同地を出航し日本に向かった。同艦はこの後、気仙沼大島の港復旧作業に加わった。

米海軍のシンボルである空母もトモダチ作戦に加わった。3月13日にはロナルド・レーガンが到着し、洋上のハブ空港としての役割を果たした。厚木基地から空輸した援助物資を降ろし、ヘリコプターに積み替えて被災地に運んだ。

 

笠松:この機動力の高さは周辺の国々を驚かせたと思います。

国際政治の現実は厳しく油断のならないものです。ロシアは震災直後の3月17日、Su-27などの戦闘機を日本の間近まで飛ばし、放射能を収集する作業をしていました。中国も3月26日、海監のヘリコプターや航空機を海上自衛隊の護衛艦「いそゆき」に異常接近させました。

笠松:トモダチ作戦による一連の動きは、こうした国々に対して、日米の紐帯の強さ、日米同盟が非常に強固であることを周辺国に伝えるメッセージになったと思います。災害時の支援はもちろん人道支援の一環ですが、それにとどまらず、安全保障上の意義も持っています。以前は対テロ戦での協力がその役割を果していましたが、今は災害支援が取って代わっています。

 

トモダチ作戦の基盤となった日米災害救護・復旧支援協力

笠松:おっしゃる通りです。実はトモダチ作戦は、それだけが独立して存在しているわけではありません。その基礎となる、日米間の様々な協力がそれまでにありました。そして、トモダチ作戦を踏まえて出来上がった新たな協力が今、育っているところです。

まず、トモダチ作戦の基礎となった協力からお話ししましょう。嚆矢となったのは、「日米防衛協力のための指針」(いわゆるガイドライン)が1997年に改訂されたことです。この時、「大規模災害の発生を受け、日米いずれかの政府又は両国政府が関係政府又は国際機関の要請に応じて緊急援助活動を行う場合には、日米両国政府は、必要に応じて緊密に協力する」という文言が加えられました。

具体的な協力の第一弾は、中米のホンジュラスが1998年にハリケーンに襲われた時に行った国際緊急援助活動です。自衛隊は被災民を援助するため、初めて国際緊急援助活動隊を派遣しました。これに伴い、太平洋をまたいで1万2600キロメートル先の同地まで援助隊の装備品を運ぶ必要がありました。輸送機C-130の航続距離は4000キロなので、途中で幾度か燃料を補給しなければなりません。この時、米軍が基地を提供してくれたのです。グアムのアンダーセン空軍基地、ハワイのヒッカム空軍基地、カリフォルニアのトラビス空軍基地などで給油することができました。ここから、日米の協力が「間接的」ながら、始まったわけです。

 

その次は2005年にパキスタンで大地震が起きた時に行なった「パキスタン国際緊急援助活動」です。この地震で、7万人の市民が亡くなりました。パキスタン軍はテロとの戦争の真っ最中であるにもかかわらず、相当の人員を救援・復旧活動に割かなければならない。しかし、それでは、対テロ戦の勢いをそいでしまうことになりかねません。それを避けるため、日米が協力して救援・復旧活動を支援しました。日米の協力が、対テロ戦の維持という政策で協調する「戦略的」な性格を帯びるようになったのです。

次のステップになったのは、2010年に中米ハイチで起きた地震に対応した「ハイチ国際緊急援助活動」です。この時は、ハイチに居た34人の米国民を、ポルトプランス空港から米マイアミのホームステッド空軍基地まで自衛隊が輸送機C-130で運びました。また、腹膜炎と腰椎骨折で苦しむレオガン市在住の女の子を、米海兵隊の部隊がいる3キロ離れた地点まで、自衛隊が車両で運びました。ここからは海兵隊がヘリを使い、米軍の病院船「コンフォート」まで運んでいます。このプロジェクトでは日米がついに現場で「直接的」に協力する段階に達したのです。

こうした積み重ねがあったからこそ、トモダチ作戦で協力することができたのです。

 

フィリピンでの災害支援は第2のトモダチ作戦

トモダチ作戦が元となっている、その後の協力というのはどういうものですか。

笠松:一つは、「海図」の整備です。トモダチ作戦は「海図なき航海」と呼ばれていました。日米がどのような役割を分担するのかなど、事前には何も決まっていなかったからです。しかしトモダチ作戦を受けて、我々はこの「海図」を整備しました。その成果の一つが「自衛隊南海トラフ対処計画」です。南海トラフ地震が起きた場合を想定して、日米調整所の設置要領や、調整メカニズムの作り方、日米が共同して行う活動の概要をまとめています。

もう一つが、2013年にフィリピンを襲った台風への対処でした。レイテ島のタクロバンなどで洪水や土砂崩れが発生し、多数の死者や避難民が発生しました。トモダチ作戦を含むこれまでの活動で培った日米の協力体制を第三国に対して提供したのです。日米同盟がまさに「地域を安定させるための公共財」としての役割を果しました。

この活動では三つの大きな進展がありました。一つは、日米間の情報共有がいっそう緊密になったことです。陸上自衛隊はこの年、米太平洋海兵隊司令部に常設の連絡将校を初めて配置しました。米太平洋海兵隊はフィリピンの救助活動を担当した部隊の上部組織です。

この時、同司令官のロブリング中将(当時)がこの連絡将校に作戦室に入ることを特別に許可しました。おかげで陸上自衛隊は、米軍がどのように動こうとしているか、すべての詳細情報を得ることができ、緊密な連携をすることができました。

二つめは国際緊急援助活動において、日米物品役務相互提供協定(ACSA)を初めて適用したことです。ACSAは、自衛隊と米軍の間で、物品・役務(サービス)を相互に提供する枠組みを定めた協定です。防衛省は2012年に自衛隊法を改正し、国際緊急援助活動についても適用できることを明記しました。フィリピンにおいて、これを初めて実行することになったのです。

 

協力の輪を多国間に

三つめは、これまで培ってきた、日米以外の国とのヒューマンネットワークが花を咲かせたことです。実は、陸上自衛隊は2002年から、人道支援/災害救助活動などにおける多国間協力をテーマにしたアジア太平洋地域多国間協力プログラム(MACP)を開催しています。大規模災害が起きた時の多国間調整のあり方などについて議論を続けてきました。

そして、この時、まさに13カ国からなる多国間調整所を設置することになりました。参加したのはフィリピンのほか、日米、オーストラリア、ニュージーランド、ブルネイ、インドネシア、マレーシア、韓国、英国、スペイン、カナダ、イスラエルの各国です。

幸いなことに、多国間調整所に姿を現した日米、カナダ、フィリピン、英国のメンバーはMACPの参加者だったのです。MACPにおけるこれまでの議論の中で調整メカニズムのテンプレートを共有していたため、調整作業をスムーズに進めることができました。

 

中国の台頭を背景に、アジアで多国間安全保障体制を築くべきとの議論があります。災害対応を通じて築いた多国間調整のメカニズムが、有事の際に役に立つようになるかもしれないですね。

 トモダチ作戦では、素早い動員が日米同盟の力を証明することになりました。フィリピンでの活動においても同様のことがあったのでしょうか。海上自衛隊の空母型護衛艦「いせ」に、米軍の垂直離着陸輸送機「オスプレイ」を搭載して臨んだと聞いています。

笠松:そうですね。これには現地を不安定な状態にしない効果が期待できました。

 

大きな災害が起き、現地政府の機能が麻痺すると、その空白を突こうとして、反政府勢力などが活動を活発化させることが想定されます。そうした事態を招かないよう、すぐ近くに日米が存在していることを示すシンボルというわけですね。

笠松:おっしゃる通りです。

 

人道支援/災害救助活動における日米の協力は、今後どのように発展させていくでしょうか。

笠松:大きく三つの方向に進化させていく考えです。一つは、第三国に対する能力構築支援です。2012年度以降、東ティモール、カンボジア、ベトナム、モンゴル、インドネシアに対して、人道支援/災害救助活動の能力を高めるための支援を提供しています。例えば東ティモールでは車両整備技術の教育を、カンボジアでは道路構築の教育を行ないました。

二つめは日米にオーストラリアを加えた3カ国間の協力を強化することです。2013年に陸上自衛隊と米太平洋陸軍、米太平洋海兵隊、豪陸軍のトップが集まり、「人道支援/災害救助活動」と「能力構築支援事業に関する情報共有」などについて協力していくことを盛り込んだ共同声明を発表しました。

三つめは、2010年に創設された拡大ASEAN国防相会議(ADMM+)における秩序作りに貢献することです。会議には五つのワーキンググループ(WG)があります。日本は2013年、防衛医学のWGでシンガポールとともに共同議長を務めました。この活動の中で、大規模災害が発生した時の防衛医学における各国の協力のあり方について検証するため、机上演習や実動演習を行いました。実動演習には18カ国から3100人が参加しました。さらに2014年からは、人道支援/災害救助活動のWGにおいて、ラオスと共同議長国を務めています。

ADMM+において日米は直接的な協力はしていませんが、ここでも日米が連携していくことが重要だと考えています。

仙台空港復旧プロジェクトに携わった自衛隊、米軍、空港関係者の面々(笠松誠・西部方面総監部情報部長提供)

 

「トモダチ作戦」――取りようによっては、偽善の響きを持つネーミングだ。国益のためには相手が誰であれ厳しい態度に出る米国が、単に友情で行動するわけがない。このように捉える向きは多いにちがいない。しかし、日米間に友情が全くなかったと考えるのも間違いだろう。笠松誠・西部方面総監部情報部長が披露してくれた教え子のエピソードからは、日本人と米国人が交流し語り合ってきた基盤があり、それがあったからこそ、被災者の心情に思いを馳せた行動を米兵が取ったことがうかがわれる。この友情に対して、心からお礼を申し上げたいと思う。

この友情を、日本はアジアの国々との間にさらに広げていくことを考えねばならない。そうすることが、危機に瀕した人たちの生命と生活を救うことはもちろん、国と国との関係を深めること、そして日本自身の安全保障の強化にもつながる。

最後にもう一つ、エピソードを紹介しよう。仙台空港のオペレーションから数カ月後経った2011年夏、コゼニスキー大佐は米国に帰国することになった。同大佐は笠松・西部方面総監部情報部長に「帰る前に、やりたいことがある」と語った。それは、民航機で仙台空港に降り立つこと。それが震災復興のシンボルだからだ。同大佐は、この夢を実現して米国へと去っていった。

 

 

 

 

 

 

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