(夢の超特急50年:中)210の命、死者ゼロの礎 光が有れば、影も有りますね・・・(;-_-)

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◇1964~2014

どこか愛らしい初代新幹線「0系」の団子っ鼻は、どうやってできたのか。

設計に携わった田中真一さん(81)=千葉市=は、国鉄の研究機関で、車両構造研究室長だった故・三木忠直(ただなお)氏直属の部下だった。

海軍で爆撃機「銀河」や特攻機「桜花」を設計した三木氏。細身で小柄、妥協を許さぬ厳しさを持っていた。東京・浜松町にあった、すれ違うのがやっとの狭い研究室で言った。

「飛行機やレーシングカーの形をよく勉強しろ。格好のいい、美しいものは空気抵抗が少なく速い。空気力学的に優れている」

新幹線

風洞実験模型を手に0系開発の思い出を語る田中真一さん=

東京都国分寺市の鉄道総合技術研究所、山本和生撮影

 

軍用機の手法

三木氏が鉛筆で描いたデザインをもとに、田中さんは彫刻用の粘土で直径10センチほどの先頭車両の模型を何度も作り直す。これを縦横に糸で切るなどし、3次元の図面におこす。そこから木製の模型を作り、空気の流れや空気抵抗を調べた。軍用機の設計と同手法だ。

「設計した特攻機で随分、若者を死なせてしまった。もう軍需産業には関わりたくない」。三木氏は一方でそんな思いを抱いていたという。年に1度の職場旅行で「1曲どうぞ」と頼まれ、三木氏が歌ったのは賛美歌。戦後、キリスト教の洗礼を受けていた。

 

■工事で殉職者

この50年間、新幹線は列車事故による死者を出していない。だが、忘れてはならない犠牲者がいる。

JR東海道線の新居(あらい)町駅(静岡県湖西市)から徒歩約15分。住宅街の緩やかな坂道を上ると、新幹線の線路沿いに「東海道新幹線建設工事殉職者慰霊碑」がある。高さ1・43メートル、幅2・76メートルの御影石。裏側に殉職者210人の名が刻まれる。国鉄職員の6人以外は、請負業者の従業員だ。

トンネルでの土砂の崩落などで死者が相次いだ。「東海道新幹線工事誌」によると、「静岡幹線工事局」の区域内では82人が死亡。20代が34人で最多、30代が24人で続き、10代も3人いた。静岡に加え、宮城や福島、新潟、富山など地方出身者が大半だ。

出稼ぎ者も多い。「50年も経ったんですか」。宮城県登米(とめ)市の農業及川清さん(79)は「ふう」と息を吐いた。8人きょうだいの長男。弟の三郎さんを亡くした。22歳だった。「おおらかで両親思いだった」。男兄弟は中学を出ると働き、仕送りで実家を支えた。

建設会社で働いていた三郎さんは、1962年1月26日に死亡した。「トンネル内で、車両に挟まれて死んだと聞いた。詳しいことは分からない」と話す。

「新幹線は安全なんだろうけど、三郎を含めて210人も死んだことは忘れないでほしい。もう、そういうことのないように」

 

■リニアへ継承

山梨県都留市リニア中央新幹線の2027年開業を目指すJR東海のリニア実験線を、実験用車両が時速500キロで駆け抜ける。

「考えられない進化だ」。鉄道総合技術研究所でリニア担当の研究室長を務めていた藤江恂治(じゅんじ)さん(76)は、完成度の高さに目を見張った。

開発が始まったのは、新幹線開業より前の62年。藤江さんはこの年、国鉄に入り、67年に研究所に配属された。91年、開発責任者になっていた藤江さんに一報が入る。「リニアが燃えている」。低速走行で使うタイヤがパンクし、摩擦でホイールから火が出て、油圧装置の油に引火した。

車両は全焼。藤江さんは技術開発責任者の職を辞した。事故を教訓に、リニアには燃えにくい素材や油が使われるようになった。「最高時速で走ることでなく、走ったうえで無事止まった時が一番うれしい。新幹線でもリニアでも、それが技術者共通の思いです」


 

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